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立ち戻って八千代座の話

前々回は山鹿の芝居小屋 八千代座 についてお知らせしようと思っていたのに、
八千代座前で偶然くまモンと遭遇し、
写真撮ったり握手したり、
あれやこれやと盛り上がっているうち
すっかり異なる展開となってしまったわけでした。

で、反省して、八千代座話の仕切り直しです。
玉三郎ファンの間には、
古今東西二十年もの昔から八千代座の名は知れ渡っておりますが、
そうではない方々にも、
片田舎の温泉町に築百年もの年月を迎える古い芝居小屋があることを
知っていただけたらなと思うゆえ。

さて先だっての11月に観に行ったのは
八千代座開場百年記念「坂東玉三郎特別舞踊公演」でした。
5ヵ月ほど前のチケット発売初日午前10時直後に申し込んだので、
千秋楽の桟敷席いちばん前が手に入りました。
手の届くところに舞台があります。
お芝居でもコンサートでも、
劇場鑑賞の場合、
文楽以外
あまり前方の席では舞台の人と目が合いそうで、
すると緊張するわ恥ずかしいわで
居心地悪くなるタイプですが、
八千代座でだけは
いちばん前で観てみたい!と願っていたのです。
何せ“芝居小屋”ですもん、
“かぶりつき”が最も似合う空間ですもん、
それやらずして何をやる? ですね。

というわけで、
嬉しくて当日は早々と席に着き、
芝居小屋の空気を堪能せんとて
1階枡席から2階席の1列目2列目3列目など
いろいろ探索に勤しみました。
そしたら2階席もいいわけですよね。

もちろん“かぶりつき”のスペシャルな愉悦には負けるかもですが、
2階席にはそれとは別口の、
小屋全景を視野に入れつつ舞台を観るという
遠望の愉しみが用意されていたのです。
舞台に釘付け、ではなくて、
舞台を観るそのひとときを楽しむゆとりを感じました。
昔の芝居鑑賞法っておそらくこうではなかったかでしょうか。
来年はこっちでもいいかなと思い座席番号を控えましたよ。

ほら、
開演前のわくわくざわざわした空気の中、
少しずつ席が埋まり、
おしゃべりしながらお弁当食べながら
みなさん楽しそう。
千秋楽のこの日は
関東や関西から観に来られた常連さんが目立ちました。
天井から吊られた大正時代の瀟洒なシャンデリアが
当時の栄華を匂わせて、
華やかな気分に誘います。




芝居小屋「八千代座」は明治四十三年に
熊本県北部の湯の町、山鹿に建てられました。
この湯の町は、
古墳をいくつか持ち、
平安時代の書物にもその名が記されていたという歴史的温泉郷である他に、
鎌倉時代は菊池氏の城下町、
江戸時代は
熊本と小倉を結び参勤交代の行列が通る豊前街道第一の宿場町として、
多いに賑わったと聞いています。
上質の米・穀類にも恵まれ、養蚕も盛んとなった明治期になると、
江戸文化の影響を伝承しつつ、
米穀業、製糸業、そして呉服商の栄える商人の町に発展しました。

県内でも洒落っ気とパワーで名を馳せたという山鹿商人。
明治五年には
豊前街道沿いにあった江戸時代開湯の温泉「さくら湯」を
江戸趣味満載の立派な建物に大改築したと伝えられています。
自分たちの威力を形に残したかったのでしょうね。
その三十数年あと、
「さくら湯」に続いたのが「八千代座」で、
やはり豊前街道沿いの「さくら湯」を見下ろす坂の上に、
江戸の伝統を受け継ぐ芝居小屋として建造されました。
温泉に来た人たちがさらに芝居も愉しめるようにという、
これももちろん商人たちの肝いり事業だったようです。

外観は正面やぐらの白漆喰破風造り。
建物内部1階は
真ん中に“歩み板”が碁盤の目のように区切る畳敷きの枡席、
それをコの字に囲む桟敷席、
左右に走る本花道と仮花道。
広い舞台の中央に回り舞台が設置され、
舞台の奥には楽屋が並び、
舞台の下には奈落が控え、
役者が下からせせり出て来る
いわゆる“すっぽん”仕掛けも備わっている。
2階は正面に座布団席があり、
左右の朱塗り欄干に沿って並んだ桟敷席、
その後ろにあるのが3階の桟敷席・・・と、
絵に描いたような江戸時代の芝居小屋の様式です。

この由緒正しき芝居小屋を設計したのはプロではなく、
回船問屋のご主人木村亀太郎さんでした。
山鹿商人の一人ってことですね。
亀太郎さんは問屋主人のみならず
紙だけで灯籠や寺社や飾り物のミニチュアを作る
伝統工芸“山鹿灯籠”の名人でもありました。
素人ながら設計をまかされたのは、
灯籠作りの名人ゆえ多少は建築に造詣深かったからじゃないかと推察します。
にしても大胆な人材選びですよねえ。
来日したとき建築は素人だったメレル・ヴォーリズに
教会や学校建築を依頼した近江商人と近い太っ腹を山鹿商人にも感じました。
もちろん亀太郎さん本人の勉強意欲と努力も並みのレベルではなく、
国内各地はもとより上海にまで足を伸ばして劇場の視察を続け、
設計のヒントとコツを習得していったらしいのです。

さてそうやって出来上がった八千代座で
観客の目をいちばん引いたのは、
吹き抜けの大空間を見下ろす賑やかな天井ではなかったかと思います。

P1040710.jpg

極彩色もきらびやかに天井に張り付いているのは、
亀太郎さんが近隣の商店を一軒一軒回って依頼を取り、
図柄も書体も自ら描いた広告絵看板なのでした。
それが天井いっぱいに広がる構図は実に圧巻。
幕が上がるまでのひととき、
こういうものに見下ろされたら
誰しも上を向いて過ごすしかありませんよね。

呉服屋、小間物屋、薬屋、米屋、傘屋、文具屋、金物屋、
舶来雑貨、履き物、陶磁器、菓子、染め物などの小売商、
味噌屋油屋、
旅館、仕出し屋、懐石料理屋に造り酒屋。
農機具、肥料、燃料店・・・etc。
ひとつひとつ、個性を違えて描かれて、
山鹿の町のなりわいがひと目でわかる天井図。
亀太郎さんは建物の設計の他、
営業、デザイナー、イラストレーターの一人4役を
見事にこなしたスーパーマンと言えますね。

さて、そのようにして明治に始まり、
大正・昭和と地方における栄華を極めた八千代座も
栄枯盛衰のおきてから逃れることはできなくて、
テレビ出現の昭和三十年以降は衰退の一途をたどり、
四十年代には経営不振に陥りました。
そこに建物の老朽化が重なるともはや残された道は一本しかなく、
とうとう昭和五十年、閉鎖されてしまいます。

私の母方の祖父は歴代山鹿の米穀商で、
店と米倉と精米工場と家が
八千代座を背にして言うと
豊前街道から右に入った坂道、
古くからの商家が連なる一角にありました。
小学生の頃は毎年の夏休み冬休みを
ここで過ごしたものでした。
今は違うでしょうけれど、
当時の山鹿に内風呂を備えた家は少なかったと思います。
何しろ町のあちらこちらに
こんこんといい湯を湛えた温泉があるのですから。
山鹿では「風呂に入る」のではなく、
「風呂に行く」が普通の言い回し。
私の場合も滞在中は、
祖母か従姉妹か叔母さんに連れられて
「上の湯」「下の湯」に通いました。
みんなが忙しいときは近くの「上の湯」、
ゆっくりできる宵は
豊前街道をぶらぶらと散歩がてらに下って「下の湯」、
つまり「さくら湯」へ行っていました。
だからその途中、嫌でも八千代座が目に入ります。
夕方なので薄暗く、
ちょっと不気味な気配があったのを覚えています。
その頃はもう衰退が始まっていたらしく、
建物周りは閑散として人の姿がありません。
出し物の幟だけが風にあおられパタパタと
乾いた音を立てていたのを思い出します。
人のいない芝居小屋は
図体の大きい人ががくりとうなだれているようなもの哀しさを漂わせ、
見てはいけないものを見たような後味の悪さを
幼心にも感じました。

それから時は矢のように流れ、
とうとう昭和五十年にテレビニュースで閉鎖を知ることになったのです。
老朽化から取り壊しになるという噂も聞こえてきて、
これには少々気が塞ぎました。
そして十年ほど経った新聞の片隅に、
市民の保存運動による募金で復興の道が開けたという記事を見つけ、
やれやれと安堵しました。
そしてぼやっとしていたら、
昭和の終わりの六十三年、
今度は国の重要文化財指定となったという記事が出て、
またまたビックリさせられました。
町の人たちの保存運動が実を結んだのですね。
(私の従姉妹も募金に何口も払ったそうです)
世の中けっこういいこともあるもんですよねえ。
重文ゆえの一般公開が始まると
再び脚光を浴びているらしい様子がテレビ画面に映し出されました。
遠く離れた東京でこういういろいろを目にし耳にし幾歳月、
つくづく八千代座は“しぶといなあ”と感心したのを覚えています

しかし何といっても衝撃的だったのは平成二年の秋口のこと。
八千代座で玉三郎の舞踊公演が開かれるという記事でした。
え、 なんで玉さまが! いきなり山鹿で踊るって? この唐突さはいったい何?
と焦って情報を集めると、
わかったのはこういうことです。
(以下はNHK『プロフェッショナル』のナレーション風に読んでください)
  
平成元年、歌舞伎役者坂東玉三郎は一枚の写真に強く魅かれた。
そこには荒れ果てた芝居小屋が写っていた。
老朽化はしているが様式は江戸時代の芝居小屋そのままだった。
坂東のその年は海外公演が続いていた。
ヨーロッパの石造りの重厚な劇場に立つ機会が増え、
その素晴らしさを堪能していた。
比べて日本の劇場事情が気になっていた。
そういうときに目にした古い荒れ果てた小屋だった。
それでもそれは一年前、国の重要文化財に指定されていた。
坂東はわかる気がした。
「ここの舞台に立ってみたい」という気持ちが湧いた。
そしてその夏、九州の片田舎の静かな湯の町を訪れた。
坂東の気持ちを聞いた町の人々は
こんな小屋に天下の坂東玉三郎が本当に来てくれるのだろうかと、
みんな半信半疑になった。
坂東が熱を込めて語る公演のあり方を
夢遊病者のように聞いていた・・・。

しかし約束は守られたのでした。
紆余曲折あったにしてもそれから二年後の平成二年十一月、
坂東、もとい玉さまは
八千代座八十周年・復興記念公演として憧れの舞台に立ったのです。
その期間は全国から駆けつけたファンで町中膨れあがったらしい。
私の知り合いも東京から、
確か一泊二日の強行ツアーで駆けつけたと思います。

それから二十一年間、
「この舞台に立つだけで、江戸時代に飛翔するような気持ちになる。
 魂までもが日本的なるものにどっぷり浸かれる」
という八千代座で毎年踊る玉さまなのです。
ほかに朗読会、コンサートなども催し、
八千代座とは切っても切れぬ深いつながりを築いておられます。
私も熊本に戻ったのを機に
これからは毎年観させていただこうと思いました。
一度観たら忘れられなくなるのです、
玉さんと私どもとの具体的にも抽象的にも近い距離感が。
この小屋でしか生まれることなき親密で温かい空気感が。
玉さんが5回も6回もカーテンコールに応じたことに驚きました。
しかも笑みさえ浮かべて・・・。
歌舞伎座や国立劇場などで観てきた玉さんとは別人かと思いましたね。
小屋の力ってあるんですねえ。

気楽にスタートしたのですが、
想定外の長い話になりました。
ここまで読んでくれた方は少ないだろうなあ。
私自身さすがに疲れ、
もうどうでもいいやの気分になってペンを置きます。
忍耐強く読んでくれた方、ありがとう!

最後の目の保養に
可愛いショットはいかがですか。
八千代座近くの店で番犬教育を受けている柴犬の子供です。

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